□ Hermann Abendroth □ Hermann Paul Maximilian Abendroth (* 19.01.1883 Frankfurt/Main; † 29.05.1956 Jena) (1883年01月19日フランクフルト・アム・マイン生 1956年05月29日イエナにて没) |
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■ Profile 詳細版-1 ↑ ↑ 1883-1934年は、こちらをクリック。 ■ Profile 詳細版-2 ↑ ↑ 1934-1945年は、こちらをクリック。 ヘルマン・アーベントロート Profile 詳細版-3 ■ 1945年以降 ■ 1945年03月30日アーベントロートはゲヴァントハウスとの最後のレコーディングを行った。 戦争後初のコンサートは1945年07月08日 (この時のプログラムはGewandhausMagazinによると >Auf dem Programm Beethovens Ouvertuere zu Goethes Trauerspiel "Egmont" とのこと)。以後のコンサートでは、ナチ時代には演奏出来なかった メンデルスゾーン、ヒンデミット、チャイコフスキーの作品などが演奏された。 (1945年にチャイコフスキーを6回は指揮しているらしいです。同じ1945年ヒンデミット Mathis der Maler 「画家マティス」、ブラウンフェルスの作品の一部も指揮とのこと。) (1946年マーラー交響曲第1番「巨人」を指揮、という資料もみかけましたが、1946年はもう カペルマイスターを退任していますのでライプツィヒで振ったのか、ワイマールで振った記録なのかは不明。) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でアーベントロートがカペルマイスターとして最後に指揮をしたのは1945年11月29日。 シューマンのマンフレッド序曲とブルックナー7番だった。(そして1945年12月31日にはベートーヴェンの 第9を指揮、ゲヴァントハウスを指揮したこの年最後のコンサートとなる。) 戦争終結後、ワイマールの音楽大学(「フランツ・リスト・ワイマール音楽大学」) の学長となる。 →→ フランツ・リスト・ワイマール音楽大学 [ このフランツ・リスト・ワイマール音楽大学でアーベントロートに教わった音楽家の中に ギュンター・ヘルビッヒ( Günther Herbig )がいますが、彼が Tahra からインタビューを受けた際に 「アーベントロートはコミュニストでは無かった」というコメントをしています。 戦前はソヴィエトに対してもケルンのユダヤ社会に対しても好意的な立場でかつ反ナチ。 戦後は東ドイツ側に在住してはいても共産主義そのものには特に賛成する立場では無かった。 また、私が人づてに伺った話では、アーベントロートはリベラルな考え方の人であったようです。 ] 1945年08月30日にチューリンゲン州のシュターツカペレ・ワイマールを初めて指揮 (GewandhausMagazin では1945年のアーベントロートに関する話の中に >in Weimar 8 Sinfoniekonzerte und 4 bis 5 Opern in der Spielzeit zu dirigieren という記述を見かけましたので、1945年のこのシーズンでもう頻繁に振っていた様子。) 同年・1945年ワイマール市から州立劇場( Nationaltheater )と音楽院( Konservatorium )の GMD ( Generalmusikdirektor )として招かれ、 シュターツカペレ・ワイマール(ワイマール州立管弦楽団)(ワイマール国立管弦楽団、と訳されることもある) ( Staatskapelle Weimar )の常任指揮者。 (1946年01月はリゴレットをワイマールの劇場で振ったらしいです。) 毎年10回程の定期演奏会では1度か2度はブルックナーの曲が入っていたそうです。 1952年からは毎年聖金曜日に特別演奏会を始めていて、毎回ブルックナーの曲だったとのこと。 1952年04月11日聖金曜日はブルックナー交響曲第9番。1956年03月30日聖金曜日はブルックナー交響曲第3番。 (歌劇場やフランツ・リスト・ワイマール音楽大学へ仕事に行く時にも、 自転車に乗って通っていたそうです。) 1946年10月からワイマール州立劇場(国立劇場、と訳されることもある) で魔笛、リゴレット、フィデリオ、エフゲニー・オネーギン、トリスタンとイゾルデ、 カルメン、オテロ、マイスタージンガー、ワルキューレなどを指揮。 フィデリオはリューベックやパリ(このパリでの上演は1941年12月11日にオペラハウスで)、 ブダペストでも指揮している。 1948年ワイマール州立(国立)歌劇場再開時にアーベントロートが指揮したのは ベートーヴェン交響曲第9番だったとのこと。 1949年2月から亡くなった年の1956年までライプツィヒ放送交響楽団( Rundfunksinfonieorchesters Leipzig ) の首席指揮者( Chefdirigent )を務めた。 (1945年にアーベントロートがライプツィヒを去って以来、 1949年1月23日にこの町で再びまたアーベントロートが指揮した際、 聴衆は「アーベントロートが戻ってきた!」と大喜びした。) 1949年08月25日DDR(ドイツ民主共和国)から国家賞( Nationalpreis )受賞を受ける。 (この受賞に際して貰った10,000マルクは全額ライプツィヒ放送交響楽団に寄付しているそうです。) (また、この頃にヘルマン・アーベントロート財団という社会援助基金が作られた、と書いている 資料も見たのですが、これに関しては詳細不明。) 1954年には"Vaterländischen Verdienstorden"のシルバーを受賞しているとのこと。 (これはどういう賞なのか、詳細不明。辞書ひいてみたんですが、訳してみると 愛国的功労賞・・・という感じでしょうか。) 1949年05月***** 1952年にベルリンのドイツ芸術院会員に迎えられる。 1953年からは ベルリン放送交響楽団( Rundfunksinfonieorchesters Berlin )の首席指揮者( Chefdirigent )を兼務。 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を去ってからアーベントロートが 演奏会でこのゲヴァントハウスを再び振ったのは、 1951年12月に客演で一度だけ、とする資料がある。 (Tahra の TAH106/107 の解説書p.74にその際のプログラムが載っている。) * 1951年12月13日19;30~のコングレスハレでの演奏会。 ゲルスター : Festliche Toccata für Orchester バッハ :2つのヴァイオリンのための協奏曲 シューベルト : 交響曲第7番「グレート」 [ なお、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とはDreamlife 音楽記録映画 「ベートーヴェンの生涯 」 DLVC-1013 でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮している ベートーヴェン交響曲第3番(英雄)第1楽章の映像があるので、アーベントロートは 戦後全く振っていない訳ではない。 ] また、ワイマールではリスト・ミュージアムの館長も務めている。 戦後、様々な委員会の役員を務めていたそうです。 なお、チューリンゲン州は1946年、アーベントロートにチューリンゲン州枢密顧問官 " Staatsrat " の 称号を与えている。(この枢密顧問官というのは、市議と市長の間位の役職と伺ったことがあります。 枢密顧問官は名誉職で、市議会の議決のチェックをしたり、市長の仕事をチェックする 役職で、ただ、強い影響力までは無いそうです。 伺った話の中で、推測としてですが、当時ナチとの関係を問われ公職追放になった名士の多くが 1945年~1946年にかけてこういう職務から離れていったので、 枢密顧問官のなり手がいなくなった、というのもある様です。) ベルリン国立歌劇場が1955年再建され、その時最初の公演ではアーベントロートが指揮したとのこと。 http://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_State_Opera 戦後の演奏活動の場はワイマール、ライプツィヒ、ベルリンだったが、 西ドイツへも招かれていて、ヴァントに現代作品などの演奏を依頼されケルンのギュルツェニヒ管弦楽団にも何度か客演し (1950年5月にギュルツェニヒ管弦楽団でブルックナー交響曲第3番を指揮)、 1950年5月自らも設立に関わったケルン音楽大学の25周年記念の催しに参加している。 (ちなみに、1933年04月01日までケルン音楽大学をアーベントロートと共同運営していた ヴァルター・ブラウンフェルス ( Walter Braunfels ) は 1945年にコンラート・アデナウアーの要請を受け再びケルンへ戻っている。 ブラウンフェルスは音楽大学を再建し、1950年に名誉教授の称号を得て退官、ボーデン湖畔へ隠居した。) abendroth_braunfels.html アーベントロートは1951年の「プラハの春」で指揮している。 (この年は「平和」がテーマで16ヶ国から参加、チェコからはアンチェル、ノイマン、スメタチェック、 Krombholc、ロシアはNijazi、ポーランドはFitelberg、ルーマニアはGeorgescu、スイスからシェルヘン、 そして東ドイツからアーベントロート。) (プログラムによると、アーベントロートは06月09日、06月10日の2日、同じプログラムを指揮した様です。 曲は ゲルスターの Slavnostnf Toccata とベートーヴェン 交響曲第9番[合唱はチェコ語で]。) (ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1951.06.09) チェコフィルハーモニー管弦楽団の録音はCDで入手可能。) アーベントロートは,戦後ソヴィエト連邦に招待された最初のドイツ人指揮者。 (ショスタコーヴィチがアーベントロートのことをプラウダにコメントしている。) 1951年1月ソヴィエト連邦で指揮。 1954年モスクワへ演奏旅行へ行き、ベートーヴェンを指揮。 リヒテル、U.S.S.R State Symphony Orchestraと ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番(PARNASSUS PACD 96013)の録音がありますが、 この時それ以外の曲もU.S.S.Rとやっていたかどうかは不明。) ソヴィエト演奏旅行した際に、レニングラード・フィルの楽屋でアーベントロートのサイン入り 写真が飾られていたのをアーベントロートも見て喜んでいたとそうです。 (戦前、アーベントロートは1925・1927・1928年にソヴィエト連邦へ演奏旅行していますが、 「アーベントロートはファシストではない」 ということがちゃんと知られていたので、ドイツに占領された900日以上の間も含めて、 戦前から戦後までずっと、レニングラード・フィルでは アーベントロートの写真が壁に飾られていたとのことです。 ) 戦後初めてフランスへ演奏旅行を行なったドイツの指揮者もアーベントロート。(演奏会に脅迫等が有ったそうです。) 1956年、この年アーベントロート死去より少し前の時期、丁度シューマン没から100年の節目であったので、 アーベントロートが放送用に指揮した際の録音が残されたが、後年Berlin Classics 、Tahraで その時の音源を元にCDも出されている。 1954年5月はポーランド、1954年11月はフィンランド、1955年4月はブルガリア、 1955年11月~12月はハンガリー、チェコスロヴァキアで指揮。 1956年2月にはシュトットガルトで客演。 戦後、ブダペスト・プラハ・ワルシャワ・モスクワでも指揮したが、 当時はソ連占領区だったヴィンタトゥーア(Winterthur スイス・チューリッヒの都市)や ミュンヘンでも指揮。 なお、ベルリンフィルを戦後は指揮していないとのこと。 1956年5月29日、客演中のイエナにて、脳卒中により死去。享年73歳。 (イエナのクリニックで小手術を受けていったん回復したが、5月29日クリニックの庭で散歩中 倒れたそうです。) 戦後、ワイマールに在住し名誉市民として敬愛され、いつも愛用の自転車で街を走り、 (70歳を越えてからも、燕尾服のズボンの裾をまくりあげて自転車乗ってたらしいです。) 市民に親しまれていたアーベントロートの葬儀は、死後4日後の1956年06月02日ワイマールで 国葬として行われ、彼の棺が墓地に運ばれる際には多くの市民が道々に立ち並び、見送った。 葬送行進曲としてベートーヴェンのエロイカとシューベルトの未完成が演奏された。 アーベントロートが埋葬されたのは Historischer Friedhof Weimar(ワイマールの歴史的墓地)。 **(なおワイマールには「ヘルマン・アーベントロート通り」が有ります。) ヘルマン・アーベントロート通り@ワイマール 2行目の Abendroth-Straße, Hermann をクリックすると地図が出ます。 アーベントロート自身が好んだのはブラームス、ブルックナー、ベートーヴェン、シューベルトだが、 リヒャルト・シュトラウスやチャイコフスキー、モーツァルト、ハイドン、シューマンもよく指揮し、 現代作品も積極的に取り上げた。 なお、アーベントロートは指揮・教育活動の一方で118の歌曲(リート=Lied)を作曲したそうです。 ゲーテ、シラーを好み、教養ある温厚な人物、常に紳士的態度で人に接し、謙虚で、 どんな時にもユーモアを欠くことのなかった人物。 若い人々から年配の世代まで、幅広くファンに支持された指揮者。 朝早くから夜遅くまで葉巻を口から離さないヘビースモーカーだった。 このところ、「爆演指揮者」という形容がつくことの多いアーベントロートですが、資料によっては 「楽譜の代弁者」 「作曲家の書いたスコア・作曲家の意図に対し忠実、温かみのある表現」 という説明がされています。 (アーベントロート70歳の誕生日に寄せて文章を書いているProf.Dr. カール・ラウクス [ LP・ET-1514の解説書に日本語訳が載っている ]によると、 アーベントロートという指揮者は以下の様な表現になっている。) >「彼は多くの指揮者がするように楽譜を勝手に独自の解釈で演奏するのではなく、楽譜に書かれた内容を 作曲家の意思の伝達道具であることに常に敬意を払い、偉大なエネルギーと精神的熱慮をもって 実際の音に移し変えていった。」 >「ドイツ古典派のモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス(フリッツ・シュタインバッハの真の意味の後継者として!)、 そしてブルックナーが特に彼の心のよりどころであったが、外国の芸術に対しても決して拒否反応は 示さなかった。いや、まったくその逆で、世界の音楽史上で有名な曲の多くが彼によってドイツで 初演された・・・・・」 ![]() 2004.03
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