□ Hermann Abendroth □ Hermann Paul Maximilian Abendroth (* 19.01.1883 Frankfurt/Main; † 29.05.1956 Jena) (1883年01月19日フランクフルト・アム・マイン生 1956年05月29日イエナにて没) |
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■ Profile 詳細版-1 ↑ ↑ 1934年以前は、こちらをクリック。 ヘルマン・アーベントロート Profile 詳細版-2 ■ 1934年以降 ■ (1933年1月にヒトラー首相就任によりナチス政権が成立。) 1934年1月、ケルン市長 Riesen は、アーベントロートがナチに全然賛同していないということ、 彼がソヴィエトに対してもケルンのユダヤ社会に対しても好意的な立場を取っていることを非難して、 アーベントロートを、ケルン市の音楽監督 ( Städtischer Generalmusikdirektor )、 ケルンコンサート協会の芸術監督兼指揮者 ( künstlerischer Leiter und Dirigent der Kölner Konzertgesellschaft )、 音楽大学の学長 ( Direktor der Staatlichen Hochschule für Musik )、 この3つの職から解任、アーベントロートは公職を追放された。 (教え子の若い指揮者達にアーベントロートは 「まだ若いのだから、国外に出なさい。よい時代がきたらいつでも帰ってこれるから」 とドイツを離れて活動するよう助言したそうです。) (アーベントロートが1918年11月にSPD(ドイツ社会民主党)政権に従って反ファシストの姿勢を示し 行動したことを公職追放の理由の中に書いてあるものもあったのですが、 これがどういうことであったのかは今はまだ未確認です。) なおアーベントロートの職務解任に関しては、その件がベルリンから正式に承認されるまでは 職務を続けるよう言われていたため3ヶ月この状況下で仕事は続けたが、結局ベルリンは アーベントロートの職務解任に関し承認しなかった。しかし、ケルン市長とアーベントロートは 敵対しているため、職務を続けることは不可能だった。 なお1934年06月21日、当時のライプチィヒ市長であるカール・フリードリヒ・ゲルデラー (ゲルドレール) ( Carl Friedrich Goerdeler 1884年07月31日〜1945年02月02日)と手紙で連絡をとっている。 (反ナチ、という点でゲルデラーとアーベントロートとの間に共通点はあるのですが、 2人がどういう関係であったかは不明。) (アーベントロートが解任された後、ケルン市の音楽監督は2シーズン欠員だったが、 1936年に次のケルン市の音楽監督として就任したのは、1934年当時にも既に党員であったオイゲン・パープスト。 パープストはフェリックス・モットルの弟子。そして戦後、1946年にケルン市音楽監督になったのが ギュンター・ヴァント。) アーベントロートがケルンで最後に指揮をしたのは1934年3月30日(聖金曜日)、 バッハのマタイ受難曲だった。 [ 復活祭(イースター)は「春分の日以降の満月の次の日曜日」。 1934年3月31日土曜日が満月にあたりますのでその翌日が復活祭、復活祭の前の一週間は 聖週間、そして1934年3月30日金曜日は「聖金曜日」、主の受難の金曜日(Karfreitag)の日。 なお、アーベントロートはケルン時代、各シーズンの最後に必ずバッハ「マタイ受難曲」を 振っていたとのこと。 そしてヴァントも1946年以降毎年聖週間にバッハのマタイ受難曲を指揮していたとのことです。] →→バッハ/マタイ受難曲@ケルンについて。 ライプツィヒではブルーノ・ワルターがナチスによりカペルマイスターの職を追われ、 1933〜1934年シーズンでの残り5回のコンサートでは、カール・シューリヒトが ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮した。 (*参照) 1933年1月30日 ヒトラー首相就任によりナチス政権が成立。 1933年3月 全権委任法の可決により議会が機能停止させられ、各政党が排除されていった。 1933年3月13日 ゲッペルスが国民啓蒙・宣伝大臣に就任。 1933年4月7日 職業官吏再建法成立。非アーリア人、政治的に好ましくない人物が公務員から排除される。 1933年4月26日 ゲジュタポ発足(長官はゲーリング)。 1933年6月 ヒトラーがゲッペルスに文化関係のことを全て委任した。 1933年7月 新党設立禁止法により、ドイツはNSDAP (国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei ) の1党国家になる。 1933年8月 すべてのユダヤ人歌手がドイツ歌唱協会から除名される。 1934年1月 国会新編成法により、州は政治的自立性を奪われて、全体国家の下部組織に変えられた。 1934年4月 全国音楽院、全ての合唱協会が国立のドイツ合唱同盟に統合された。 1934年6月 ローゼンベルクがドイツ文化闘争同盟をナチス文化共同体に改組。 1934年6月30日 レーム事件、SA(突撃隊)とその幕僚長レームらを粛清。 1934年8月2日 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領死去。 1934年秋、アーベントロートは ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(現存する世界最古のコンサート・オーケストラであり、 ドレスデンの宮廷文化に対する、ライプツィヒのドイツ市民文化の旗手としての歴史を持つ)の カペルマイスター( Gewandhaus-Kapellmeister )となる。 (*1934年04月01日付でライプツィヒ・ゲヴァントハウス・カペルマイスターになった、としている資料も ありましたが、これについてはまだ未確認。) (ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は1922年3月5日にアーベントロートと共演したことがあった)、 ( [参]ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのカペルマイスター一覧) 1934年10月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団での初めてのコンサートを指揮。 曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン交響曲第1番、ブラームス交響曲第4番。 1934年11月29日の演奏会では メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 を指揮している。 1945年12月までライプツィヒ・ゲヴァントハウス・カペルマイスターの職を務めた。 1934年10月、ライプツィヒの放送局でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を ヒンデミット交響曲「画家マティス」でアーベントロートが指揮する予定であったが、 ナチス文化共同体(ローゼンベルクが1934年6月にドイツ文化闘争同盟をナチス文化共同体に改組) が脅迫し禁止させた、という事件もあったそうです。 ゲヴァントハウス時代のレパートリーは、 四季、ファウスト、ヴェルディのレクイエム、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」など。 http://www.luise-berlin.de/ このサイトで 1905-1956年のページ内を検索してみましたが、アーベントロート教授に関し 1935年〜1936年に3箇所記述があり。 1935年02月01日 >01. 02. In der Berliner Philharmonie in der Bernburger Strasse gibt das Leipziger Gewandhausorchester unter Hermann Abendroth ein gefeiertes Konzert mit den vier Tondichtungen von Max Reger. Unter den Besuchern war auch Reichskanzler Adolf Hitler. 1935年11月07日 >07. 11. Gewandhausdirektor Hermann Abendroth leitet im überfüllten Saalbau Friedrichshain ein Konzert der Berliner Philharmoniker. 1936年01月03日 >03. 01. In der Berliner Philharmonie werden unter Leitung des Leipziger Gewandhauskapellmeisters Prof. Hermann Abendroth Winfried Wolfs Orchestervariationen über ein Thema von Alessandro Poglietti uraufgeführt. http://www.luise-berlin.de/Kalender/Jahr/1935.htm http://www.luise-berlin.de/Kalender/Jahr/1936.htm 1936年・1939年はダルムシュタットでトリスタンとイゾルデや仮面舞踏会をヘッセン州管弦楽団で指揮。 1938年にヘッセン州管弦楽団の首席指揮者になっている。 (Chefdirigent am Hessischen Landestheater Darmstadt)。 1941年フランクフルトのライン・マイン管弦楽団の首席指揮者に。 (Chefdirigent des Rhein-Mainischen Landesorchesters Frankfurt) 1944年戦時功績十字II受賞。 (Kriegsverdienstkreuz II ohne Schwerter・・とのことなので、従軍していない、非武装の 民間人向けの賞になるのでしょうか。詳細は不明。) なおライプツィヒ音楽院( Leipzig Conservatory )( Leipziger Konservatorium ) (1941年からMusikhochschule)でも 1934〜1945年のあいだ教授として務めている。 (*参照) 1930〜1937年ライプツィヒ市長を務めたゲルデラー(ゲルドレール)について: Carl Friedrich Goerdeler 1884年7月31日〜1945年2月2日 カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール) ドイツの政治家で反ナチス活動家。1930年にライプツィヒの市長に選出された。 ナチスの人種政策に反対姿勢を取り、1931年と1934年から1935年7月にかけて2回、 ドイツ全体の物価を監視する物価監視国家委員を務めているがこの時、 NSDAPへの入党を強要されないことを条件としている。 1935年にはヒトラーから市町村再編に関して相談を受けているとのこと。 1937年末、ゲルデラーが町を留守にしていた時を狙ってナチの将校が ライプツィヒ・ゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を引き降ろしてスクラップにするよう 命令を下した。ライプツィヒへ戻ったゲルデラーは激怒、抗議してライプツィヒ市長職を辞職。 アーベントロートは1937年まではナチと直接対決をしないで済むよう何とか切り抜けてきていたが、 ライプツィヒ市長はアーベントロートにカペルマイスターというポストの維持を交換条件に、彼に NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党、つまりナチスドイツ)へ入党するよう求めた。 だがアーベントロートは決してナチスの党の会合には出席することはなく、 第三帝国の世界観に対し敵対するという姿勢を変えなかった。 (アーベントロートの妻がアーリア系ではなかったために [* この「アーリア系ではなかった」というのは、「ゲルマン人ではなかった」というのと同意だと は思うのですが、妻のルーツがドイツ系ではなく東欧や北欧だったのか、あるいは 妻の親戚にユダヤ系の人がいたのか、その辺については現在不明 * ] 彼女を守るため1937年05月01日付で入党、という資料もあり、 ケルンを去ってから党には入ったが、党の会合には決して出席しなかった、という資料も有る。 これは、入党するよう強い圧力を加えられた際に「じゃあ、そっちで手続きやっておいて」と 表面では言っておいて、しかしその後全く党費を払うことはなく、そのうち払うから払うから、 と言ってはズルズルごまかし続け、結局は入党自体が実質的には無効、となってうまく逃げていた、 ということだったという話を聞いたことがあります。党の会合に出席せず党費も払わないが、 記録上だけの入党だった様です。) GewandhausMagazin では >Laut Zentralkartei der NSDAP Parteimitglied seit 1. Mai 1937 (erstes Aufnahmedatum nach der ab 2. Mai 1933 geltenden Beitrittssperre) とありました。 **(ナチスのユダヤ人排斥で亡命したブルーノ・ワルターの後任として ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターになっていること、 1943年及び1944年にバイロイト音楽祭で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮していること 等の状況から、アーベントロートについて親ナチ的であったかのような話が ある時期に全くの推測で言われることもあったのですが、事実に反していますので 大変残念なことだと思います。 アーベントロートと親交のあったソヴィエト連邦の音楽家達は、戦争中の時期でも 「アーベントロートはファシストではない」 という共通認識だったそうです。 また以前人づてに、アーベントロートに教わったことのある方にも念のために伺ったら 「アーベントロート教授がナチのはずがない」 とはっきり仰ってたそうです。)** (*参照) 1935年09月15日 ニュルンベルク法公布 1937年 ドイツ空軍,スペイン北部の町ゲルニカを無差別爆撃 蘆溝橋事件勃発.日中戦争始まる ローマで日独伊防共協定調印 日本軍,南京を占領 1938年 ヒトラー,オーストリアを併合 アーベントロートはライプツィヒ時代に、ベルリンフィルを度々指揮しレコーディングも行っている。 なお、1938年5月22日〜29日にデュッセルドルフで開催された全国音楽祭( Reichsmusiktage )の時、 1938年5月28日の演奏会でアーベントロートはベルリンフィル・ベートーヴェン交響曲第9番を指揮。 (この演奏会の前にはゲッペルスの演説があったとのこと。) (初めてベルリンフィルをアーベントロートが指揮したのは1909年2月4日。1944年12月20日までの間にベルリンフィル とは80回以上(67回、という資料も有り)コンサートをやっていて、そのうち1940年にはデンマークへ、 1936年5月と1943年10月にはバルカン半島へ、1940年スカンディナビアへ演奏旅行へ行っている。) 1941・1942・1943年スウェーデンで指揮しているが、そのうち1943年4月7日はベートーヴェン交響曲第9番を ストックホルムフィルハーモニーオーケストラで指揮。 1943・1944年(1943.07.16の録音がPreiser Recordsから出ています)には バイロイト音楽祭 にてニュルンベルクのマイスタージンガーを指揮。 ゲヴァントハウス(織物会館)は 1943年12月3日から4日にかけてゲヴァントハウスの建物は空襲でかなり破壊され, 1944年2月20日には爆撃を受け焼かれて灰となった。 しかしコンサートは州の講堂で継続して行われた。 (ベルリン国立歌劇場でマイスタージンガーの演奏を終えて、汽車に乗りライプツィヒへ戻った時は、 ゲヴァントハウスが既に爆撃を受けた後だったそうです。) (1944年10月24日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と 「 ヘンデル 合奏協奏曲作品6 協奏曲第6番」(Haendel Concerto Grosso Op.6 No.6)(オーケストラバージョン) の録音有り。ちなみにこの「ヘンデル 合奏協奏曲作品6 協奏曲第6番」をベルリンフィルとは1944年9月20日に録音している。) この頃は戦況もますます厳しくなっており、 1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の後、事件への関連を疑われ逮捕・処刑された人が多くいた。 (*参照) (1944/ 7/20)ヒトラー暗殺未遂事件。 (ヴァルキューレ作戦によるクーデター失敗。) (1944/ 8/25)連合軍、パリ入城。 (1944/ 9/ 5)ギリシア周辺諸島のドイツ軍、退却開始。 (1944/ 9/ 8)ドイツ陸軍「V-2号」でロンドン攻撃を開始。 (1944/ 9/15)イギリス軍、ドイツ戦艦「ティルピッツ」に超大型爆弾を投下。 (1944/10/14)ロンメル(Erwin Rommel 1891〜1944)服毒自殺。 (1945/02/02)カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール)元ライプチヒ市長処刑される。 1945年03月30日アーベントロートはゲヴァントハウスとの最後のレコーディングを行った。 戦争後初のコンサートは1945年07月08日 (この時のプログラムはGewandhausMagazinによると >Auf dem Programm Beethovens Ouvertuere zu Goethes Trauerspiel "Egmont" とのこと)。以後のコンサートでは、ナチ時代には演奏出来なかった メンデルスゾーン、ヒンデミット、チャイコフスキーの作品などが演奏された。 (1945年にチャイコフスキーを6回は指揮しているらしいです。同じ1945年ヒンデミット Mathis der Maler 「画家マティス」、ブラウンフェルスの作品の一部も指揮とのこと。) (1946年マーラー交響曲第1番「巨人」を指揮、という資料もみかけましたが、これは ワイマールで振った記録と思われます。) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でアーベントロートがカペルマイスターとして最後に指揮をしたのは1945年11月29日。 シューマンのマンフレッド序曲とブルックナー7番だった。(そして1945年12月31日にはベートーヴェンの 第9を指揮、ゲヴァントハウスを指揮したこの年最後のコンサートとなる。) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を去ってからアーベントロートが 演奏会でこのゲヴァントハウスを再び振ったのは、 1951年12月に客演で一度だけ、とする資料がある。 (Tahra の TAH106/107 の解説書p.74にその際のプログラムが載っている。) * 1951年12月13日19;30〜のコングレスハレでの演奏会。 ゲルスター : Festliche Toccata für Orchester バッハ :2つのヴァイオリンのための協奏曲 シューベルト : 交響曲第7番「グレート」 [ なお、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とはDreamlife 音楽記録映画 「ベートーヴェンの生涯 」 DLVC-1013 でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮している ベートーヴェン交響曲第3番(英雄)第1楽章の映像があるので、アーベントロートは 戦後全く振っていない訳ではない。 ] ↓ ↓ 続きは、こちらをクリック。 ■ 1945年〜1956年 ■ ![]() 2004.03
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