■ アーベントロートの 略年表 ■ 


ミュンヘン時代 (1900年〜1904年)

1900年ミュンヘンで音楽の勉強を始める。
1903年指揮者デビュー。
1904年までアマチュア楽団で指揮者を務める。  


リューベック時代 (1905年〜1911年)

1905年プロ指揮者としてスタート。
1907年から1911年までリューベック市立劇場の首席指揮者を務めた。
(このリューベックで、彼の妻となった女優の Elisabeth Walter と出会う。 (Tahra のライナーノートでは Liesel Walter との表記だったが、GewandhausMagazin など 戦後以降の資料では妻の名前を Elisabeth と書いてある。)


エッセン時代 (1911年〜1914年)

1911年から1914年、エッセン市の音楽監督(GMD=Generalmusikdirektor)
1911年08月19日結婚。


ケルン時代 (1914年〜1934年)

1914年から1934年の間、ケルンのギュルツェニヒ管弦楽団で指揮。
1915年、ケルン音楽院の院長 Direktor des Kölner Konservatoriums になる。
1918年にはケルン市の音楽監督(GMD=Generalmusikdirektor)就任。
1919年 教授・Professor になる。
ケルンを拠点に欧州各都市で演奏旅行を頻繁に行う。
1920年5月のマーラー・フェスティバルに参加。
1922年、Niederrheinischen Musikfestes (低地ライン・音楽祭)に direktor (監督)として参加。

1925・1927・1928年ソヴィエトへ演奏旅行。
1926年から1937年までロンドン交響楽団に毎年招かれていて、 1927年〜1928年にはロンドン交響楽団でブラームスの交響曲のレコーディングを行っている。

ベルリン国立歌劇場 Staatsoper Berlin でも指揮している。
(1922年-1923年は、フルトヴェングラーから引き継いでシンフォニー・コンサートを ベルリン国立歌劇場で指揮。)

1925年、ケルン市長コンラート・アデナウアーの要請を受け、 ヴァルター・ブラウンフェルス ( Walter Braunfels 1882-1954 ) と 共にケルン音楽大学 Kölner Musikhochschule を設立・運営。

1930年-1933年はボン市でも指揮。

1934年1月、ケルン市長がアーベントロートをケルン市の音楽監督の職から解任、公職から追放された。
   


ライプツィヒ時代 (1934年〜1945年)

1934年秋、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター ( Gewandhaus-Kapellmeister )となり、1945年までその職を務めた。
この時期にベルリンフィルを度々指揮し、レコーディングも行っている。

1934-1945年 ライプツィヒ音楽院の教授を務める。 (Conservatoryは1941年からMusikhochschuleになっている。)
1938年ダルムシュタットのヘッセン州管弦楽団の首席指揮者になる。
1941年フランクフルトのライン・マイン管弦楽団の首席指揮者になる。
1941・1942・1943年スウェーデンで指揮。(1943年4月7日はベートーヴェン交響曲第9番を ストックホルムフィルハーモニーオーケストラで指揮。)
1943年と1944年 バイロイト音楽祭でワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガーを指揮。


ワイマール時代 (1945年〜1956年)

1945年ワイマール市から国立劇場と音楽院の音楽監督(GMD=Generalmusikdirektor)として招かれ、 1956年までシュターツカペレ・ワイマール(ワイマール国立管弦楽団) ( Staatskapelle Weimar )の常任指揮者。

1949年から亡くなった年の1956年までライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者( Chefdirigent )を務めた。

1949年08月25日、ドイツ民主共和国から国家賞( Nationalpreis )受賞を受ける。 (この受賞に際して貰った10,000マルクは全額ライプツィヒ放送交響楽団に寄付。)

1951年1月ソヴィエト連邦で指揮。

1951年の「プラハの春」で指揮している。

1952年ベルリンのドイツ芸術院会員に迎えられる。

1953年から亡くなった年の1956年まで ベルリン放送交響楽団の首席指揮者( Chefdirigent )を兼務。

1954年 Vaterländischen Verdienstorden(silver)という賞を受ける。

1954年モスクワへ演奏旅行へ行き、ベートーヴェンを指揮。


戦後の演奏活動の場はワイマール、ライプツィヒ、ベルリンだったが、西ドイツへも招かれていて、 ヴァントに現代作品の演奏を依頼されケルンのギュルツェニヒ管弦楽団にも客演し、 1950年5月に ケルン音楽大学の25周年記念の催しに参加している。

1955年ベルリン国立歌劇場が再建され、その時最初の公演はアーベントロートが指揮したとのこと。

1956年5月29日客演中のイエナにて、脳卒中により死去。享年73歳。






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