年月日 | 当時のドイツ、欧州 | |
1883年01月19日 | ヘルマン・アーベントロート ( Hermann Paul Maximilian Abendroth ) フランクフルト・アム・マインで誕生。 生家はフランクフルトの大きな書籍商で、父はモリッツ・アーベントロート ( Moritz Abendroth )。 |
1871年ドイツ帝国発足。 1883年ビスマルクの社会立法始まる。 |
1900年 | ミュンヘンで音楽の勉強を始める。 ワーグナー指揮者として有名なフェリックス・モットル ( Felix Mottl 1856-1911)にオーケストラの指揮法を学び、 ピアノをアンナ・ランゲンハム=ヒルツェル( Anna Langenham-Hirtzel ) に学ぶ。 音楽理論と作曲を著書「和声学」で有名なルードヴィヒ・トゥイレ( Ludwig Thuille )に学んだ。 (1900〜1905年) |
1900年ニーチェ(1844〜)没。 |
1903年 | ミュンヘンで1903年指揮者デビュー。 最初に就いたポストは、des Münchner Orchestervereins ( Munich orchestral association ) (ミュンヘン・オーケストラ協会、オルケスタフェライン)というアマチュア楽団の指揮者。 ここで1904年まで2年間指揮。 (その一方で、モットル( Felix Mottl )やシリングス( Max von Schillings )がカイム管弦楽団 ( Kaim Orchestra )を 指揮する際にヴァイオリン・ヴィオラを演奏したりもしていたそうです。) |
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1905年 | 1905年からリューベックで Munich Orchestral Society と似た楽団である
リューベック楽友協会 ( Gesellschaft der Musikfreunde ) ( the Society of the Friends of Music in Lubeck )の
指揮者の仕事を引き受け、この年がプロの指揮者としてのスタートとなる。 |
1906年モロッコ事件でドイツ孤立化。 |
1907年 | 1907年から1911年までリューベック市立劇場の首席指揮者。 (このリューベックの Kapellmeister の職は、アーベントロートの後任がフルトヴェングラー。) |
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1909年2月4日 | リューベック時代、1909年2月4日にベルリンフィルを初めて指揮 | |
1910年 | 1910年リューベック・フィルハーモニー合唱団の指揮者を兼任。 | |
1911年 | 1911年から1914年は エッセン市の音楽監督。 (Georg Witte がエッセン市の音楽監督を40年務めて1910〜1911年のシーズンで辞めた後を受けた形。) (なお、1911年にアーベントロートはケルンで Peter Kreuderという人のピアノ、ギュルツェニヒ管弦楽団で モーツアルトを指揮している。) 1911年08月19日結婚。 |
1914年7月28日〜1918年11月11日 第1次世界大戦 |
1914年 | 1914年から1934年の間ケルンのギュルツェニヒ管弦楽団 ( Gürzenich-Orchesters Köln )で指揮。 | 1917年コンラート・アデナウアーがケルン市長となる。 |
1915年 | 1915年フリッツ・シュタインバッハ( Fritz Steinbach 1855〜1916)の後を継ぐ形で、 ケルン音楽院( Köln Conservatory )( Kölner Konservatorium )の院長となり、 1932年まで教授として教えた。( * 1925年以降は音楽大学になっている。) | |
1918年 | 1918年、ケルン市の音楽監督(GMD=Generalmusikdirektor)に就任。 |
1918年第1次世界大戦終結 |
1919年 | 1919年、教授・Professor になる。 |
1919年パリ講和会議開催、ヴェルサイユ条約調印、ワイマールで国民会議召集、憲法制定、議会制民主主義共和国誕生。 |
1920年 | 1920年5月のマーラー・フェスティバルに参加し、 1920年10月、また1941年2月20日にもアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮している。 (1941年2月20日、レーガー:「ベックリンによる4つの音詩」) | 1921年賠償委員会がドイツに1320億金マルクの支払いを確定させた。 |
1922年 | 1922年から1934年はベルリン国立歌劇場( Berlin State Opera )の指揮者を兼務。 (前任者がクレンペラー。) | 1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦成立 |
1923年 | 1923年に、 ケルン室内楽管弦楽団( Cologne Chamber Orchestra )
( Koelner-kammerorchester )を彼の弟子であるGustav Classensが設立。 the Rhine Chamber Music Festival において、Bruhl Castle のコンサートホールで この室内楽管弦楽団の最初のコンサートを アーベントロートとオットー・クレンペラーが指揮した。 |
1923年ドイツでハイパーインフレーション、 フランス軍がルール占領 |
1925年 | 1925年、アーベントロートはヴァルター・ブラウンフェルス ( Walter Braunfels 1882-1954 ) と共に国立のケルン音楽大学( * ホッホシューレ=Die Hochschule 音楽専科の単科大学) を設立。 | 1925年フランス軍、ルール地方から撤退開始 |
1925年・1927年・1928年 | 1925・1927・1928年ソヴィエトを演奏旅行し、成功を収める。 | |
1926年 | ロンドン交響楽団には1926年から1937年まで毎年招かれていて、 1927年〜1928年にはロンドン交響楽団でブラームスの交響曲のレコーディングを行っている。) | 1926年ドイツ国際連盟加入 |
1927年5月 | フランスへは1927年5月に演奏旅行。 [フランスでは1943年6月にベートーヴェンをウィルヘルム・ケンプ、アルフレッド・コルトー( Alfred Cortot 1877-1962 )、 ジネット・ヌブーらと共演。] |
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1930年 | 1930年から1933年の間、ボン( Bonn )のGMD( Generalmusikdirektor )も務める。 |
1930年総選挙でナチス党大進出、社会民主党に次ぐ第2党となる(第3党は共産党) 1932年ナチス党、社会民主党を抜き第1党になる |
1934年1月〜3月 | 1934年1月、ケルン市長 Riesen は、アーベントロートがナチに
全然賛同していないということ、彼がソヴィエトに対してもケルンのユダヤ社会に対しても好意的な立場を取っていること
を非難して、アーベントロートを、ケルン市の音楽監督 ( Stadtischer Generalmusikdirektor )、ケルンコンサート協会
の芸術監督兼指揮者 ( kunstlerischer Leiter und Dirigent der Kolner Konzertgesellschaft )、音楽大学の学長
( Direktor der Staatlichen Hochschule fur Musik )、この3つの職から解任、アーベントロートは公職を追放された。 (アーベントロートが解任された後、ケルン市の音楽監督は2シーズン欠員だったが、 1936年に次のケルン市の音楽監督 として就任したのは、1934年当時にも既に党員であったオイゲン・パープスト。パープストはフェリックス・モットルの弟子。 そして戦後、1946年にケルン市音楽監督になったのがギュンター・ヴァント。) アーベントロートがケルンで最後に指揮をしたのは1934年3月30日、曲はバッハのマタイ受難曲。 |
1933年1月30日ヒトラー首相就任、ナチス政権が成立 1933年ナチス政権が成立後、ケルン市長コンラート・アデナウアー公職追放される。 1933年10月ドイツ、国際連盟を脱退。 1933年11月15日、帝国音楽院発足。 1933年12月02日、ユダヤ人による音楽教授、禁止される。 |
1934年秋 | 1934年秋、アーベントロートは ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
の カペルマイスター( Gewandhaus-Kapellmeister )となり
(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は1922年3月5日にアーベントロートと共演したことがあった)、
1934年10月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団での初めてのコンサートを指揮。
曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン交響曲第1番、ブラームス交響曲第4番。 1945年12月までその職を務めた。 1934年10月、ライプツィヒの放送局でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を ヒンデミット交響曲「画家マティス」でアーベントロートが指揮する予定があったが、 ナチス文化共同体(ローゼンベルクが1934年6月にドイツ文化闘争同盟をナチス文化共同体に改組) が脅迫し禁止させた。 1934-1945年 ライプツィヒ音楽院の教授を務める。 (Conservatoryは1941年からMusikhochschuleになっている。) |
1930年カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール)がライプチィヒ市長になる。 1934年04月22日すべての合唱団組織が帝国歌手同盟に統一される。 1935年08月30日、ユダヤ人及び非アーリア人、ドイツの諸楽団での演奏を禁じられる。 1935年10月07日すべてのコンサート、地方音楽当局に事前登録の義務。 |
1936・1938年 | このライプツィヒ時代(1934年〜1945年)にベルリンフィルを度々指揮し、
レコーディングも行う一方、演奏旅行も行っており、1940年にはデンマークへ、
1936年5月と1943年10月にはバルカン半島へ、1940年にはデンマークとスカンディナビアへ演奏旅行へ行っている。
1938年ダルムシュタットのヘッセン州管弦楽団の首席指揮者になる。 |
1936年02月25日クナッパーツブッシュ、ヒトラー批判の言動のためにバイエルン歌劇場指揮者の地位を失う。 1936年11月10日ライプツィヒのメンデルスゾーン像、地方当局により撤去される。 1937年11月から1938年9月にかけてズデーテン危機 1937年末カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール)がライプチィヒ市長を辞任。 1938年03月オーストリア併合 |
1941年 | 1941年2月20日アムステルダム・
コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。(1941年2月20日、レーガー:「ベックリンによる4つの音詩」、録音有)
1941年10月11日にパリのオペラハウスでフィデリオ上演。 (フィデリオはリューベックやパリ、ブダペストでも指揮しており、彼の得意とするオペラだったようです。) 1941年フランクフルトのライン・マイン管弦楽団の首席指揮者になる。 |
1940年6月パリ陥落 |
1941・1942・1943年 | 1941・1942・1943年スウェーデンで指揮しているが、 そのうち1943年4月7日はベートーヴェン交響曲第9番をストックホルムフィルハーモニーオーケストラで指揮。 | 1940年7月バルト三国、ソ連に併合される |
1943年・1944年 | 1943・1944年(1943.07.16の録音有)には バイロイト音楽祭 にてニュルンベルクのマイスタージンガーを指揮。 | |
1944年 | ゲヴァントハウス(織物会館)は1944年2月20日爆撃された。 しかしコンサートは州の講堂で継続して行われた。 (1944年10月24日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と「 ヘンデル 合奏協奏曲作品6 協奏曲第6番」 (Haendel Concerto Grosso Op.6 No.6)(オーケストラバージョン) の録音有り。 ちなみにこの「ヘンデル 合奏協奏曲作品6 協奏曲第6番」をベルリンフィルとは1944年9月20日に録音している。) |
1944年1月連合軍がフランスのレジスタンス・グループに補給物資の投下を開始 1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件 1944年8月25日連合軍、パリ入城 1944年8月カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール)元ライプチィヒ市長逮捕される。 1945年2月2日カール・フリードリヒ・ゲルデラー(ゲルドレール)処刑される。 |
1945年 | 1945年03月30日アーベントロートはゲヴァントハウスとの
最後のレコーディングを行った。戦争後初のコンサートは1945年07月08日。以後のコンサートでは、ナチ時代には演奏出来なかった
メンデルスゾーン、マーラー、ヒンデミットの作品などが演奏された。 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でアーベントロートがカペルマイスターとして最後に指揮をしたのは1945年11月29日。 シューマンのマンフレッド序曲とブルックナー7番だった。 (そして1945年12月31日にはベートーヴェンの第9を指揮、ゲヴァントハウスを指揮したこの年最後のコンサートとなる。) |
1945年1月20日ソ連軍、ドイツ領内に侵攻 1945年3月5日連合軍、ケルン占領 1945年4月18日ソ連軍、ウィーン占領 1945年4月25日連合軍、ライプツィヒ占領 1945年4月27日ソ連軍、ベルリンを包囲 1945年5月8日ドイツ降伏 1945年7月17日ドイツのポツダムで会談が開かれる |
1945年〜1946年 | 1945年08月30日にシュターツカペレ・ワイマールを初めて指揮し、
同年ワイマール市から国立劇場( Nationaltheater )と音楽院( Konservatorium )のGMD ( Generalmusikdirektor )として招かれ、
1946年からはシュターツカペレ・ワイマール(ワイマール国立管弦楽団) ( Staatskapelle Weimar )の常任指揮者。
1946年10月からワイマール国立劇場で魔笛、リゴレット、フィデリオ、エフゲニー・オネーギン、トリスタンとイゾルデ、
カルメン、オテロ、マイスタージンガー、ワルキューレなどを指揮。フィデリオはリューベックやパリ
(このパリでの上演は1941年10月11日にオペラハウスで)、ブダペストでも指揮しており、彼の得意とするオペラだったようです。)
なおチューリンゲン州が1946年、アーベントロートにチューリンゲン州枢密顧問官 " Staatsrat " の称号を与えている。 |
1945年アデナウアーがケルン市長に復帰、キリスト教民主同盟を創設 |
1949年 | 1949年2月から亡くなった年の1956年までライプツィヒ放送交響楽団
( Rundfunksinfonieorchesters Leipzig )の首席指揮者( Chefdirigent )を務めた。 (1945年にアーベントロートがライプツィヒを去って以来、1949年1月23日にこの町で再びまたアーベントロートが指揮した際、聴衆は 「アーベントロートが戻ってきた!」と大喜びした。) 1949年08月25日、DDR(ドイツ民主共和国)から国家賞( Nationalpreis )受賞を受ける。 (この受賞に際して貰った10,000マルクは全額ライプツィヒ放送交響楽団に寄付しているそうです。) |
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1950年 | 戦後の演奏活動の場はワイマール、ライプツィヒ、ベルリンだったが、
西ドイツへも招かれていて、ヴァントに現代作品などの演奏を依頼されケルンのギュルツェニヒ管弦楽団にも何度か客演している。
(1950年5月にギュルツェニヒ管弦楽団でブルックナー交響曲第3番を指揮。) 1950年5月自らも設立に関わったケルン音楽大学の25周年記念の催しに参加している。 |
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1951・1952年 |
1951年1月ソヴィエト連邦で指揮。(アーベントロートは,戦後ソヴィエト連邦に招待された最初のドイツ人指揮者。)
1951年の「プラハの春」で指揮。 1952年ベルリンのドイツ芸術院会員に迎えられる。 |
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1954年 | 1954年モスクワへ演奏旅行へ行き、ベートーヴェンを指揮。
リヒテル、U.S.S.R State Symphony Orchestraと ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番(PARNASSUS PACD 96013)の録音 有。それ以外の曲もU.S.S.Rとやっていたかどうかは不明。 1954年 Vaterländischen Verdienstorden(silver)という賞を受ける。 |
1952年東ドイツで国家保安省(シュタージ)設置。 1953年3月5日、スターリンが死亡。 1953年6月17日東ベルリンで労働者が蜂起。 |
1955年 | ベルリン国立歌劇場が1955年再開され、その再開時最初の公演はアーベントロートが指揮。 | |
1956年05月29日 | 客演中のイエナにて、脳卒中により死去。享年73歳。 |