2005.05 |
ヴァルター・ ブラウンフェルス Walter Braunfels *19.12.1882 †19.03.1954 |
ヴァルター・ブラウンフェルス Walter Braunfels 1882年12月19日フランクフルト生,1954年3月19日ケルン没 ウィーンでレシェティツキーにピアノを学び,その後はミュンヘンでトゥイレとモットルに師事。 1925年,ケルン音楽大学設立・指導のためケルンに招かれ アーベントロートと共にケルン音楽大学 Kölner Musikhochschule を運営。ユダヤ系だったため 1933年04月01日にケルン音楽大学学長の職を職を辞めさせられゴーデスベルクへ,後にはボーデン湖畔に住む。 作品も上演できない状況におかれた。 戦後は音楽界へ復帰。第2次世界大戦後ケルン音楽大学の再編に取り組んだ。 1950年名誉教授の称号を得て退官,ボーデン湖畔に住む。 (「 王女ブランビラ Prinzessin Brambilla 」再演のためケルン滞在中に死去したらしいです。) (なおヴァルター・ブラウンフェルスは、ナチ時代の言い方で言うと四半ユダヤ人 [祖父・祖母のうち1人がユダヤ人]になるらしいです。) 以下はブラウンフェルスのCD紹介&CD付属の解説書に載ってたことの一部を私が日本語訳したもの。 ■ CPO 999 406-2 String Quartet No.1 [ op.60 ], No.2 [ op.61 ] このCD付属の解説書(英語 p.9-10・独語 p.4-5)から一部参照。 ブラウンフェルスが作曲家として初めて成功を収めたのは1920年で、 Phantastische Erscheinungen eines Themas von Hector Berlioz [ op.25 ]と Die Vögel [ op.30 ]の初演の成功による。 ケルンでアーベントロートの指揮によりブラウンフェルスの Te Deum [ op.32 ] は1922年、 Große Messe(Great Mass) [ op.37 ]は1927年に初演された。 ■ CPO 999 882-2 Phantastische Erscheinungen eines Themas von Hector Berlioz ( Fantastic Appearances of a Theme by Hector Berlioz )[ op.25 ] Serenade [ op.20 ] このCD付属の解説書(英語 p.9-10・独語 p.5-6)から一部参照。 1925年から1933年,ブラウンフェルスはアーベントロートと共に ケルン音楽大学 Kölner Musikhochschule の Direktor(学長)だった。 ブラウンフェルスの作品名: Ulenspiegel 1913 Die Vögel 1920 Don Gil von den grünen Hosen 1924 Der gläserne Berg 1929 Galathea 1929 Der Traum ein Leben 1937 Szenen aus dem Leben der heiligen Johanna 1943 Verkündigung . Ein Mysterium 1945 Der Zauberlehrling 1954 Offenbarung Johannis 1919 Das Spiel von der Auferstehung 1954 ![]() ■ Decca 448679-2 Die Vögel ( The Birds )[ op.30 ] (原作はアリストファネスの喜劇) ブラウンフェルスの歌劇 Die Vögel 「鳥たち」をミュンヘンで1920年に初演したのはワルターだそうですが、 同年11月ブラウンフェルス自身も指揮しており、その時のプログラムの写真もCD付属の解説書に 載っていました。 こちらのCD付属の解説書(英語 p.17-18・独語 p.30-31)から一部参照した訳。 (注: 所々私が関連事項を補足していますので、忠実な訳文ではありません) ↓ 1923年、ヴァルター・ブラウンフェルスはプロイセン芸術アカデミー(1871-1955)の正会員に選ばれた。 翌年、ケルンでブラウンフェルス作曲のテ・デウムがセンセーショナルな成功を収めたその後、 ケルン市長コンラート・アデナウアーが彼を訪ねて、 ヘルマン・アーベントロートと協力し新たにケルン音楽大学を設立するよう依頼。 (ケルン音楽院はアーベントロートが1925年まで院長を務めて、1925年に国立音楽大学と改称された。 この時の学長が誰だったかは現在未確認ですが、1931年当時にケルン音楽大学学長だったのが ヴァルター・ブラウンフェルスであることはギュンター・ヴァント関連の資料から確認出来ています。) Eduard Erdmann(エドゥアルド・エルドマン)、Bram Eldering(ブラム・エルデリング)、 Paul Grümmer(ポール・グリュンマー)、Philipp Jarnach(フィリップ・ヤルナッハ)の ような優秀な教授陣と協力し、 Staatlichen Hochschule für Musik ケルン国立音楽大学は国際的な評価を得た。 しかしブラウンフェルスのこの仕事は、1933年の政治的な出来事により阻まれ 1933年04月01日ケルン音楽大学学長の職を追われた。 1945年、ブラウンフェルスはコンラート・アデナウアーの要請を受け再びケルンへ戻った。 ブラウンフェルスの尽力により音楽大学は再建され、彼自身もコンサート・ピアニスト としてのキャリアを再開。 1948年彼の作品がケルン歌劇場で上演された。 ブラウンフェルスの70歳の誕生日にはギュンター・ヴァントが Westdeutschen Rundfunk (WDR) でブラウンフェルス作曲のテ・デウム op.32を指揮。 (なお、アーベントロートとブラウンフェルスは協力関係にはありましたが、友達とか親友という様な 親しい間柄ではなかったし、この2人は大分違うタイプであった、と人づてに伺いました。) (2007.12追記) ギュンター・ヴァント指揮ブラウンフェルス:テ・デウム(1952年12月20日、ライヴ)が 2007年07月にCD化されています。ブラウンフェルス70歳記念演奏会でのライブ録音。ブラウンフェルスの誕生日(12月19日)の翌日の演奏です。 http://www.hmv.co.jp/product/detail/2554902 ブラウンフェルス:テ・デウム op.32〜ソプラノ、テノール、混声合唱、オルガンと大管弦楽のための レオニー・リザネク(S) ヘルムート・メルヒェルト(T) ヘルマン・ヴェルナー(org) ケルン・ギュルツェニヒ合唱団 ケルン放送交響楽団 ギュンター・ヴァント(指揮) 録音:1952年12月20日(ライヴ、モノラル) |