■ エピソード ■ |
■学術的な、指揮者界の権威 アーベントロートはライナーと同じく、(そして、後のヴァントと同じ様に) 学術的な指揮者界の権威で、 フルヴェングラーも分からないことがあるとアーベントロートに質問し、 トスカニーニも現代曲についてはアーベントロートに質問していたそうです。 アーベントロートは、自分がシェーンベルクなどに関し分からないことがあると ライナーに聞いて、 逆にライナーは、ラヴェルなどのフランスものについてはアーベントロートに聞いていたそうです。 若手指揮者にとって、アーベントロートとライナーは、 ”良心的な指揮者界の権威” そういう存在だったそうで、アーベントロートはずっとドイツにいましたので、 ワーグナーなどよく質問受けていたのだそうです。 ■枢密顧問官 「 Staatsrat 」 戦後、様々な委員会の役員を務めていたそうです。 なお、チューリンゲン州は1946年、アーベントロートに チューリンゲン州枢密顧問官 " Staatsrat " の 称号を与えている。 (この枢密顧問官というのは、例えば都市の枢密顧問官の場合、 市議と市長の間位の役職と伺ったことがあります。枢密顧問官は名誉職で、 議会の議決のチェックをしたり、 都市の枢密顧問官の場合、市長の仕事をチェック、 州の枢密顧問官の場合、州の長の仕事をチェックするが、 強い影響力までは無いそうです。 伺った話の中で、推測としてですが、戦後ナチとの関係を問われ公職追放になった名士の多くが 1945年〜1946年にかけてこういう職務から離れていったので、 枢密顧問官のなり手がいなくなった、というのもある様です。) ベルリンの批評家が「市長のようである」とアーベントロートに関し書いたことがあるようなんですが、 これはどちらかと言うと、アーベントロートは音楽家らしくない、という感想だったようです。 ■自転車 ケルン時代、アーベントロートは自転車に乗っていつもコンサート会場へ出向く、 というのがケルン市民によく知られていたそうです。 (このケルン時代もアーベントロートは全く車を持たなかったとのこと。 当時のアーベントロートの職務からすると車を所持して乗っていても おかしくない状況なんですが、忙しすぎて免許を取りに行く暇も無かったらしい、 という話もあります。 自転車は自分で修理したくらい器用なところもあったそうです。 また、アーベントロート自身も自転車で充分色んな用事を済ませることが出来るというのと、 街を自転車で移動するのが好きだったということがあるのでしょうか・・・。) 戦後ワイマールに在住し、名誉市民として敬愛されたアーベントロートは ワイマールでも、いつも愛用の自転車で街を走り、市民に親しまれていたそうです。 国立歌劇場へは燕尾服のズボンの裾をまくり上げ自転車をこいで通勤してたとか。 ■ヘビースモーカー アーベントロートのCDに使われる写真の中に、 葉巻をくわえていたり手に持っている写真があります。 ( →例えば、バイロイト音楽祭公式HPでのアーベントロート紹介ページでのこの写真。) 相当なヘビースモーカーだった様で、オーケストラとのリハーサルの間 も吸っていたそうです。 (ボッセ氏に会われた方が直接聞かれた話では、アーベントロートは「偉い」指揮者として尊敬 されていたので、リハーサルでも唯一、中でタバコを吸うことを許されていた、ということだったそうです。 この「偉い」という表現については、日本人で言うと、よく時代劇で「ははー」と平身低頭するような、 畏れ多いという感じの「偉さ」をボッセ氏は体で表現され、話されていたそうです。) リハーサルは10時から行われていたが、時計の針が丁度10時ぴったりになると、いつもタバコを くゆらせながらアーベントロートは登場したそうです。 放送局のスタジオでも唯一アーベントロートには喫煙が許可されていたとのこと。 ハバナを吸っていたそうです。 ■初演マニア アーベントロート自身が好んで演奏したのはブラームス、ブルックナー、ベートーヴェン、シューベルトだが、 リヒャルト・シュトラウスやチャイコフスキー、モーツァルト、ハイドン、シューマンもよく指揮している。 その一方で、現代作品を演奏することを大変重視していて、進んでその初演を多く手がけたそうです。 作曲家が新しい作品を発表するのを助け、アドヴァイスもしていたようですが、 自分が教えた指揮者達にも現代作品を手がけることは大切だと言っていたらしいです。 聴衆の側が現代作品をなかなか受け入れ難いことに配慮して、 プログラムには現代作品と一緒に古典も必ず入れて、 ちゃんと演奏会のチケットが売れるようにということを考えてやっていたとのこと。 自分が教えた指揮者達には、音楽だけでなく演奏会のチケットの売り方なども 教えていたそうです。 ■仕事がはやい アーベントロートは、事務処理等も含めて大変仕事がはやかったそうです。 色んな仕事を兼務することが多かったみたいで、例えば、 1918年から1934年の間ケルンの音楽監督を務めて、それだけでも大変忙しいだろうに、 1931年-1932年はボン市管弦楽団の客演指揮者も務めています。 (1930年から1933年の間、ボンのGMD・ Generalmusikdirektor 、という記述のものもあり。) ■戦後ソヴィエト連邦に招待された最初のドイツ人指揮者 戦後ソヴィエト演奏旅行した際に、レニングラード・フィルの楽屋にアーベントロートの サイン入り写真が飾られていたのを見て、アーベントロートは喜んでいたそうです。 この写真、アーベントロートが戦前レニングラード・フィルにあげたものらしいのですが、 アーベントロートはファシストではない、ということがちゃんと知られていたので、 ドイツに占領された900日以上の間も含めて、戦前から戦後までずっと、壁に飾られていたとのこと。 ■戦後初めてフランスへ演奏旅行を行なったドイツの指揮者 演奏会を行なうにあたって脅迫などもあったのだそうです。 ■ユーモア カール・シェーネヴォルフ博士(アーベントロートと親しかった方の様です)へ アーベントロートが病院から宛てた手紙(最後の手紙となったそうです)の末尾には 「あなたが腹立たしく思っているヘルマン・アーベントロートより心をこめて」 とユーモアを含めて書いてあったそうです。 ■バッハ マタイ受難曲 @ケルン アーベントロートはケルン時代、各シーズンの最後に必ずバッハ「マタイ受難曲」 を振っていたとのこと。 これに関してはこちらの別ページへ。 → [ バッハ・マタイ受難曲@ケルン ] ■ベートーヴェン 交響曲第9番 @ライプツィヒ アーベントロートはゲヴァントハウスのカペルマイスターだった期間、シーズンの最後の曲は必ず ベートーヴェンの交響曲第9番、だったのだそうです。 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でアーベントロートがカペルマイスターとして、 最後に指揮をしたのは1945年11月29日、曲はシューマンのマンフレッド序曲とブルックナー7番でした。 そして1945年12月31日にはベートーヴェンの交響曲第9番を指揮していて、この45年大晦日、第9を ゲヴァントハウスで指揮したのがこの年最後のコンサートとなります。 ライプツィヒを去って以後は、アーベントロートはワイマールでの音楽活動になりますが、 1949年にライプツィヒで再び、アーベントロートが指揮した際、聴衆は「アーベントロートが戻ってきた!」 と大喜びした。 (1949年というと、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足した年。 コンヴィチュニーがこの年ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターになって います。) ■Poet ワイマールにアーベントロートが残した日記、ファイル等があるそうなんですが、 そこにアーベントロートが書いた55の「 Poem 」が残されているとのこと。 Tahra が出したCD・TAH141/142 のライナーノートにその一部が(仏語と英語に訳されたものになりますが) 載っています。 また、アーベントロートは118の歌曲(リート=Lied)を作曲したそうです。 |