2003.12 |
カール・ズスケ Karl Suske |
■ Gerhard Bosse (ゲルハルト・ボッセ) ■ のページへ、ボッセ氏に会われた方がアーベントロートについて聞いて下さった時の お話を伺って載せさせて頂いていたのですが、 >カール・ズスケ氏がヴィオラ奏者としてオケのオーディションに来た時、 >多くのメンバーは、ズスケ氏が余りにも上手いので、どうせすぐにどこか >外国に亡命するだろうという理由で採用しないと決めたが、ボッセ氏は >これに怒ってアーベントロートのところに直訴しに行った ということを伺った際に、まず私が思ったのは、 「戦後、表向きはゲヴァントハウスから離れたアーベントロートが、 この当時もゲヴァントハウスの人事に関わっていた、ということに なるのだろうか・・・」 ということでした。 ここで、公式プロフィールを見てみますと、ズスケは1934年生まれで、 1954年第一ヴァイオリン奏者としてゲヴァントハウス管弦楽団に入団、とあります。 ゲルハルト・ボッセ http://www.njp.or.jp/njp/profile/profile_bosse.htmlより一部引用 >1922年ライプツィヒ近郊のヴルツェンに生まれ、5歳の時から父にヴァイオリンの 手ほどきを受ける。ライプツィヒ音楽院に進み、当時ゲヴァントハウス管弦楽団の コンサートマスターでもあったヴォルガント教授およびダヴィドソン教授に師事。 在学中から同管弦楽団のメンバーを務めた。第2次大戦中は、リンツ帝国 ブルックナー管弦楽団で、フルトヴェングラー、カラヤン、ベーム等のもとで演奏。 1946年にはワイマール音楽大学の助教授、49年には教授に就任。 1951年よりライプツィヒ放送交響楽団の第1コンサートマスターとなり、同時に ライプツィヒ音楽院のヴァイオリン教授と室内楽マスタークラスの主任を務める。 55年にはゲヴァントハウス管弦楽団の第1コンサートマスターとゲヴァントハウス 弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者となる。 カール・ズスケ http://www.simc.jp/jury/suske.htmlより一部引用 >1934年、北ボヘミア地方のリベレッツ(旧ライシェンベルク)生まれ。 ワイマール音楽大学、ライプツィヒ音楽院にてゲルハルト・ボッセに師事。 1954年、第一ヴァイオリン奏者としてゲヴァントハウス管弦楽団に入団し、 2年後には同管弦楽団の第一コンサートマスターに就任、併せて ゲヴァントハウス弦楽四重奏団のメンバーとなる。 東ドイツでは1952年に国家保安省(シュタージ)が設置されていますし、 1953年6月17日東ベルリンで労働者蜂起、というのがあったのですが、 経済状況悪化で西への逃亡者が増加したのが1953年頃だったそうです。 その後人づてに伺った話ですと、アーベントロートは戦後もゲヴァントハウスの人事で 最終決定権を握っていた可能性が有るそうで、オケの演奏の質の維持に貢献していたそうです。 ズスケがヴィオラ奏者としてオケのオーディションに行って上手すぎるから不採用、 というこの有名な話に関しては、 (ズスケが第一ヴァイオリン奏者として入団したのは1954年ですから、その前の時期ということなので) アーベントロートとしても、亡命問題でピリピリしているオケや党に 対して、あまり強く言えなかったのだろうか・・・ということもつい推測してしまいました。 |