2003.12 |
ゲルハルト・ボッセ Gerhard Bosse |
2003年12月3日にゲルハルト・ボッセ氏が名古屋フィルを指揮されましたが、その 前々日、12月1日に ボッセ氏に会われた方がアーベントロートについて聞いて下さいました。 その方が、ボッセ氏が話されたことをこちらのページに書いても良い、 と仰って下さって、御了承を頂いた上でこのページを作成させて頂いております。 本当にありがとうございます。 * Interview with Gerhard Bosse その後、ボッセ氏に会われた方がこういうページを作成されていました。 アーベントロートはヘビースモーカーでしたが、「偉い」指揮者として尊敬されていたので、 リハーサルでも唯一、中でタバコを吸うことを許されていたそうです。 (この「偉い」という表現については、日本人で言うと、よく時代劇で「ははー」 と平身低頭するような、畏れ多いという感じの「偉さ」をボッセ氏は体で表現され、 話されていたそうです。) リハーサルは10時から行われていたが、時計の針が丁度10時ぴったりになると、 いつもタバコをくゆらせながらアーベントロートは登場したそうです。 (「10時丁度に」と言われた時、ボッセ氏は両手を時計の針のように顔の前に立てられて、 秒針が動いて「ぴったり」10時になった瞬間というのを表現されていたのだそうです。) またニキシュの命日(1922.01.23)は、偶然ですがボッセ氏の誕生日なのだそうですが、 ボッセ氏はニキシュ没後20年記念演奏会(*)に、エキストラで参加されたのが演奏家としての キャリアの最初だったそうです。このときの指揮がアーベントロートだったとのこと。 カール・ズスケ氏がヴィオラ奏者としてオケのオーディションに来た時、多くの メンバーは、ズスケ氏が余りにも上手いので、どうせすぐにどこか外国に亡命するだろう という理由で採用しないと決めたが、ボッセ氏はこれに怒ってアーベントロートの ところに直訴しに行ったのだそうです。 アーベントロートに 「上手いのに採用しないとはどういうことか」 と詰め寄ったが、アーベントロートはボッセ氏の勢いに押されたのか、しどろもどろで 「オケの皆が決めたことだし・・・」 と煮え切らない態度だったので、とうとう ボッセ氏は抗議の意味でコンサートマスターの職をすぐに辞職。しかし当時ボッセ氏 は結婚していたので、非常に苦しい決断だったそうです。 後日談として、ズスケ氏の代わりに採用した人はさっさと亡命してしまったが、ズスケ氏 はその後もずっとライプツィヒにいましたので、結局不採用の理由は全くナンセンスだった ということが証明された、とボッセ氏は言っておられたそうです。 (この時、くだらん、という感じをボッセ氏は体でも表現しておられたそうです。) お話を直接聞かれた方も、この「ズスケ氏が上手すぎるから不採用」というあの 有名なお話について、ボッセ氏のインタビューで以前読まれたことはあったけれども、 ボッセ氏ご本人から直接お聞きになったのは初めてということでした。 (*)ボッセ氏のお話から離れるのですが、ニキシュ追悼の演奏会について。 以前私が TAHRA の解説書でアーベントロートが指揮した演奏会のプログラムを見た時に、 1932年01月21日アーベントロート(この時はケルンのカペルマイスター) がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮。プログラムは ケルビーニ : アナクレオン序曲 クレツキ : ピアノ協奏曲 ブルックナー : 交響曲第4番(1922年01月23日にニキシュが亡くなったことの追悼) とありました。(ニキシュ没後10年記念演奏会) ゲルハルト・ボッセ氏の詳しいプロフィールはこちらへ。 新日本フィル http://www.njp.or.jp/njp/profile/profile_bosse.html 名古屋フィル http://www.nagoya-phil.or.jp/P0601_39.html www.h4.dion.ne.jp/~hugo.z/hs_people/hs_Bosse.html ボッセ氏に会われた方によるインタビューのページを拝見していて知ったのが以下の点。 ・1951年にボッセ氏はライプツィヒ音楽院の教授に就任 ・ライプツィヒではニキシュが始めた第9の伝統がある、 ゲヴァントハウスで年末に第9の演奏を始めたのは1918年から ・ゲヴァントハウスは年末12月に29,30,31日の3日間、続けて第9が演奏される ・戦前の頃のゲヴァントハウスのカペルマイスターは、シーズン中16回ある演奏会のうち15回を指揮、 残りの1回はトーマスカントールが指揮する |