2004.11 |
ヴァルター・ ブラウンフェルス Walter Braunfels 1882-1954 |
ヴァルター・ブラウンフェルス Walter Braunfels 1882年12月19日フランクフルト生,1954年3月19日ケルン没 ウィーンでレシェティツキーにピアノを学び,その後はミュンヘンでトゥイレとモットルに師事。 1925年,ケルン音楽大学設立・指導のためケルンに招かれたが、 1933年04月01日にケルン音楽大学学長の職務辞任を強いられゴーデスベルクへ,後にはボーデン湖畔に住む。 第2次世界大戦後ケルン音楽大学の再編に取り組んだ。 1950年名誉教授の称号を得て退官,ボーデン湖畔に住む。 (「 王女ブランビラ Prinzessin Brambilla 」再演のためケルン滞在中に死去したそうです。) (なおヴァルター・ブラウンフェルスは、ナチ時代の言い方で言うと四半ユダヤ人 [祖父・祖母のうち1人がユダヤ人]になるらしいです。) ![]() Decca 448679-2 歌劇 Die Vögel 「鳥たち」 (原作はアリストファネスの喜劇) ブラウンフェルスの歌劇「鳥たち」をミュンヘンで1920年に初演したのはワルターだそうですが、 同年11月ブラウンフェルス自身も指揮しており、その時のプログラムの写真もCD付属の解説書に 載っていました。 アーベントロートと一緒にケルン音楽大学を運営したブラウンフェルス。 半分ユダヤ人だったためナチ台頭によって1933年あらゆる要職を解かれ、 作品も上演できない状況におかれた。戦後は音楽界へ復帰。 2004年春、ブラウンフェルスの歌劇「鳥たち」のCDがまだ入手可能なことを知り、入手。 すると、 CD付属の解説書(英文 p.17-18・独語 p.30-31)に、ずっと前から知りたくて知りたくて 仕方が無かったことが載っていた!!! アーベントロート ブラウンフェルス ケルン音楽大学 以下の事項を確認出来た時には、本当に嬉しかったです。 ![]() Decca 448679-2 歌劇 Die Vögel 「鳥たち」 こちらのCD付属の解説書(英語 p.17-18・独語 p.30-31)から一部参照した訳を下記にまとめます。 (注: 所々私が関連事項を補足していますので、忠実な訳文ではありません) ↓ 1923年、ヴァルター・ブラウンフェルスはプロイセン芸術アカデミー(1871-1955)の正会員に選ばれた。 翌年、ケルンでブラウンフェルス作曲のテ・デウムがセンセーショナルな成功を収めたその後、 ケルン市長コンラート・アデナウアーが彼を訪ねて、 ヘルマン・アーベントロートと協力し新たにケルン音楽大学を設立するよう依頼。 (ケルン音楽院はアーベントロートが1925年まで院長を務めて、1925年に国立音楽大学と改称された。 この時の学長が誰だったかは現在未確認ですが、1931年当時にケルン音楽大学学長だったのが ヴァルター・ブラウンフェルスであることはギュンター・ヴァント関連の資料から確認出来ています。) Eduard Erdmann(エドゥアルド・エルドマン)、Bram Eldering(ブラム・エルデリング)、 Paul Grümmer(ポール・グリュンマー)、Philipp Jarnach(フィリップ・ヤルナッハ)の ような優秀な教授陣と協力し、 Staatlichen Hochschule für Musik ケルン国立音楽大学は国際的な評価を得た。 しかしブラウンフェルスのこの仕事は、1933年政治的な出来事により阻まれ 1933年04月01日ケルン音楽大学学長の職を辞めさせられている。 1945年、ブラウンフェルスはコンラート・アデナウアーの要請を受け再びケルンへ戻った。 ブラウンフェルスの尽力により音楽大学は再建され、彼自身もコンサート・ピアニスト としてのキャリアを再開。 1948年彼の作品がケルン歌劇場で上演された。 ブラウンフェルスの70歳の誕生日にはギュンター・ヴァントが Westdeutschen Rundfunk (WDR) でブラウンフェルス作曲のテ・デウム op.32を指揮。 (なお、アーベントロートとブラウンフェルスは協力関係にはありましたが、 友達とか親友という様な親しい間柄ではなかったし、この2人は大分違うタイプであった、 と人づてに伺いました。) |