2003.08 |
ギュンター・ヴァント Günter Wand (1912.1.7‐2002.2.14) |
ギュンター・ヴァントさんに以前知人を介して数回質問をさせて頂いたことがあるのですが、 それは私がこのサイトをまだ作っていなかった時期なので、2001年頃だったかと思います。 私がアーベントロートのファンであることを知人経由でヴァントさんが聞かれて、 それでいくつかエピソードを伺うことが出来ました。 本で読んだこととヴァントさんに教えて頂いたことから、私なりにまとめてみました。 1931〜1932年 ケルン音楽大学 (Köln) 若い頃、ヴァントはアーベントロートから 「君の場合、表現力が弱いのでロマンチックな演奏は避けた方がいい。 作品通りに、楽譜に忠実、でいきなさい。 君の持っている楽譜分析力は誰もかなわないから。」 と言われたそうです。そして、アーベントロートは 「自分たちの世代は、楽譜に忠実というやり方はやれなかったから。」 とも語ったそうです。 (ヴァントは指揮は独学・・・と言われることもあるようですが、 音楽関係の仕事をしている方に伺うと、ヴァントは「アーベントロートの忠実な生徒」だと いう話を聞きます。) ヴァントは1度だけ、アーベントロートに指揮を誉められたことがあったそうです。 ギュルツェニヒ管弦楽団でモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」をヴァントが指揮した時、 アーベントロートが 「自分はもうこの曲は振らない。お前に任せた。自分が安心して聴ける、初めてのお前の演奏だ。」 と言ったそうで、これはアーベントロートが亡くなった年、1956年のことだったそうです。 商人の家庭に生まれたヴァントは、12歳のときエルバーフェルトのターリア劇場で「ジプシー男爵」を 観た時から指揮者になりたいと思う様になり、アビトゥーア(ギムナジウム卒業試験)合格時には 音楽を専攻予定、と卒業証明に記入を受けていたが、親に猛反対され、まず ケルン大学( Universität Köln )の法学部へ文献学の学生として1930年入学した。 ケルン市の音楽監督でありケルン音楽大学音楽部部長のアーベントロートはヴァントの父パウル・ヴァント とは以前から知り合いで、ギュンターも面識だけはあった。 大学入学後、ギュンター・ヴァントはアーベントロートに"自分は本当は音楽を勉強したい"と 直接相談、それでアーベントロートは父親にかけあってくれて、また他の教授たちもヴァントの自宅へも 出向いて父親を説得してくれて、父親も渋々同意、1931年の夏学期から専門分野を変更。 まずいったんミュンヘン音楽大学へ入ったが、ヴァントはケルンへ戻りたいと考え、 1931年冬学期にケルン音楽大学学長のヴァルター・ブラウンフェルス ( Präsidenten der Kölner Musikhochschule Walter Braunfels ) 宛にベートーヴェンのピアノ・ソナタ第7番を自分が オーケストラ用に編曲した楽譜を送り、ケルン音楽大学のカール・エーレンベルク教授( Karl Ehrenberg ) の指揮法のクラスへ編入させて欲しい、と希望を伝えた。 **(1931年当時ケルン音楽大学の学長であったヴァルター・ブラウンフェルス ( Walter Braunfels 1882-1954 )は ユダヤ系だったためにナチ台頭後1933年にあらゆる要職を解かれ、 作品も上演できない状況におかれたそうです。戦後は音楽界へ復帰。)** 楽譜を送った後、ケルン音楽大学音楽部部長のヘルマン・アーベントロートの秘書室から 「アーベントロート教授が近々ミュンヘンに行く際にホテルで会いなさい」と連絡を貰い、 楽譜をアーベントロート教授に見て貰った上で12月にエーレンベルク教授の試験を受け、 ケルン音楽大学の指揮法のクラスへ編入となった。 故郷のヴッパータール歌劇場の監督で首席カペルマイスターのフリッツ・メヒレンブルクのテストを受け合格、 このヴッパータール歌劇場のコレペティトルの職を得て1932年プロ指揮者としてスタート。 アレンシュタイン、デトモルトの歌劇場の指揮者を経て、1939年にケルン歌劇場の指揮者となった。 (ケルン歌劇場の総監督アレクサンダー・シュプリングはヴァントが党員ではないということを全く問題にはせず、 有能なカペルマイスターとして採用を決めている。度々の空襲の中、上演の中断はあっても1944年春ケルン歌劇場 が爆撃を受けるまでも公演は続き、爆撃を受けた以降は大学の講堂で歌劇場は活動を再開。) 1944年9月からザルツブルク州立歌劇場の首席指揮者を務めたが、終戦後、ケルンに復帰し、 1946年にケルン市音楽総監督(当時ドイツで最年少の音楽総監督)( Generalmusikdirektor der Stadt Köln )に就任。 この1946年から1974年まで、27歳から62歳までの35年間、 ヴァントはケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のカペルマイスターを務めた。 その後、ベルン交響楽団を経て、1982年にハンブルクの北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任し、 首席指揮者退任後も、同響終身名誉指揮者として活躍した。 ケルン時代は、彼は戦後のドイツという状況下で、ギュルツェニヒ管弦楽団を再建。 バロック音楽、現代音楽、そして古典からロマン派にかけて 幅広いレパートリーをバランスよく組み合わせたプログラミングで演奏会を行ったそうです。 ヴァントはハンブルクでは、北ドイツ放送交響楽団と地元のハンブルクだけでなく シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭、 ロンドンのプロムス、エジンバラ音楽祭、東京など世界の音楽拠点にツアーを行なった。 ベルリン・フィルとミュンヘン・フィルへは定期的に客演を行なった。 http://www.guenter-wand.de/ 2006.05追記:ヴァントのDVD 「 Günter Wand - MY LIFE , MY MUSIC 」 BMG 82876-63888-9 を見ましたらこの中で、ヴァントが62歳の時、 WDR(西部ドイツ放送)でシンフォニー・オペラ部門の部長をしていたラング博士から、 WDRのケルン放送響とブルックナー交響曲第5番を録音しないか、という依頼の電話を受けた際の エピソードの後に、 (日本語の字幕から引用): (ヴァント) >ギュルツェニヒ(ケルン)には未使用の楽譜がありました。原典版の楽譜ですよ。 あそこでもずっとシャルク版が使われていたのです。あの版はとんでもない犯罪ですよ! はっきり申し上げますがね。 (聞き手) >原典版というのはハース版のことですね。 (ヴァント) >そうですハース版のことです。それが全く使われていない。 アーベントロートが指揮したときもシャルク版でした。もう誰もがそうしたんですよ。 クナッパーツブッシュなどは一生涯ずっとシャルク版だった。 原典版はとっくに知られていたのにですよ。・・・ という話が出ていましたので、 “アーベントロートがケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団でブルックナー5番を 指揮した時、シャルク版だった” と考えていいかと思います。 (なおアーベントロートの既出録音のCDの中で、 1949年5月27日ライプツィヒ放送交響楽団とのブルックナー5番の録音、これはハース版らしいです。) http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1498755 |